青森県黒石市の旧山形村―現在、黒石温泉郷と呼ばれるこの地域は、古くから温泉湯治場として、県内のみならず、多くの湯治客が疲れを癒しに訪れていました。
その営みの中では、馬や馬車が大きな役目を果たしていたのです。
旧山形村は黒石市の東山間部にあたります。明治22年に南中野・牡丹平・石名坂・豊岡・花巻・下山形・上山形・温湯・大川原・板留・二庄内・沖浦・袋の13か村が合併して成立し、旧村名を継承した13大字を編成しましたが、昭和29年に浅瀬石村・六郷村・中郷村・黒石町と合併し、黒石市となりました。
このうち、沖浦・二庄内・板留・温湯は江戸時代から知られた温泉場で、明治以降開かれた落合なども含めて、昭和33年に黒石温泉郷県立自然公園に指定されています。
牡丹平 | 石名坂 | 豊 岡 | 花 巻 | 上下山形 | 温 湯 | 南 中 野 | 黒 森 | 大 川 原 | 板 留 | 二 庄 内 | 沖 浦 | 袋 一 | 袋 二 | 計 | |
戸 数 | 64 | 93 | 57 | 112 | 93 | 181 | 115 | 17 | 51 | 55 | 41 | 52 | 135 | 66 | 1132 |
水 田 | 22 | 43 | 28 | 45 | 39 | 13 | 28 | 9 | 35 | 6 | 18 | 7 | 23 | 21 | 337 |
牛 | 1 | 5 | 6 | 3 | 2 | 1 | 1 | 4 | 3 | 26 | |||||
馬 | 21 | 31 | 14 | 22 | 23 | 7 | 21 | 8 | 23 | 1 | 23 | 5 | 21 | 22 | 242 |
この表は昭和28年の旧山形村の村勢要覧より集落別の戸数・水田面積・牛と馬の飼養頭数を抜き出したものです。
馬の頭数は、戸数ではなく、水田面積に影響を受けているようです。つまり、この地域では耕作用の農耕馬として、馬は人々の
生活を支えていたのです。また、湯治場として物資や人々の交流の中心であった温湯には、水田面積の割りに多くの馬がます。これは、耕作用ではなく、馬車屋や、物資の運搬を行う駄賃付けの存在であったようです。
旧山形村では、駄賃付けを「ダチヅケ」、馬車屋を「馬車フキ」と呼びます。温湯には、昭和に入ってから、人を乗せる馬車フキが2軒と、荷物を運ぶダチヅケが3軒あったそうです。また、ダチヅケは各集落に1軒ずつはいたとのこと。
ダチヅケは各集落で作られた作物や生産物を中心部へ運びます。つまり、二庄内や沖浦のダチヅケは温湯へ米、もみ、りんご、炭、などを運び、温湯のダチヅケは黒石の市内へとそれらを運んだのだそうです。
日本に馬車の文化が到達したのは、世界で始めて馬車が誕生してから遅れること約4000年、明治に入ってからのことです。ここ山形村では大正2年に入り、ようやく温湯~黒石間の定期馬車が運行開始されました。
黒石から弘前や浪岡などの方面への定期馬車は明治からあり、明治30年代には乗合馬車組合が組織されていましたが、大正元年に鉄道黒石線が開通すると、鉄道に利用客が流れ、馬車は営業不振になります。
しかし、同7年に陸奥鉄道が川部~五所川原間で営業するようになると、それまで温湯・板留へ引馬に乗ってきていた西北地方の湯治客が、黒石駅から馬車へ乗り継ぐようになったのです(『黒石 通史編Ⅱ』)。
黒石~温湯間の馬車は1日1往復で、黒石まで1時間半、乗車賃は20銭。「天皇陛下が乗って歩くような馬車だった」と当時を知る人は言います。
黒石の馬車屋は「佐藤の馬車屋」と「鈴木の馬車屋」の2軒。定期馬車には旅館に宿泊する人や、湯治に来る人、比較的恵まれた人が乗ったのだとか。また、病院に行く時などの特別なときにも利用したそうですが、基本的に住民は市内にも2時間程度の道を歩いて行ったと言います。つまり、馬車は「特別なもの」だったのです。
鉄道ができてからは、北海道からも湯治客が訪れていたようです。北海道の湯治客は、黒石駅までは鉄道に乗り、黒石駅からは定期馬車を使って温湯までやってきました。また、県北の地区からは、自分の地区の馬車屋を使って温湯まで湯治に訪れる人もいたそうです。
温湯の共同浴場には、定期馬車のための馬車の駅があり、待合室もあったようです。
『黒石 通史編Ⅱ』によると、大正初年頃、黒石警察署の営業許可を受けた馬車は、1頭引きが6人乗り、2頭引きが8人乗りで、15歳で馬丁(ばてい)、18歳で馭者(ぎょしゃ)の鑑札が発行されたそうです。
馬丁は馬車を引くことはできず、馬車の前を「ハイ、ハイ」と叫びながら走ったといいます。馬はイギリスのサラブレットにアメリカのトロッターを交配した国産洋種を使用していたとのこと。
また、どこの集落にも川には馬のための道があり、一日の仕事が終わると、馬を川に連れて行って、体を流してやったといいます。温湯では、川に流している温泉の排水を一部せき止め、お湯をためられるようにして馬を洗ったそうです。落合には「馬の湯」という名前で、馬が背丈まで完全に入れるような、馬のための湯があったとのことです。
終戦後くらいまでは、お嫁さんたちも馬車に乗ってやってきました。当時の結婚式は両家が別に行ったため、お嫁さん側は自分の家で披露宴をした後、迎える側が仕立てた馬車に乗って嫁ぎ先へ向かいます。お嫁さんが乗った馬車と、荷物を載せた馬車の2台で向かい、仲人さんや「送り婆」がついて行ったといいます。お嫁入りの運賃は、馬車屋がご祝儀を出すので、通常の半分くらいの金額になったのだとか♪
日本の歴史で見ると、昭和30年頃からの耕耘機や自動車の普及により、馬の需要は激減、馬を手放し、耕耘機にする農家が急増すると、農村からは一気に馬が消えていきました。
それでもこの辺りでは、耕耘機や自動車の普及が遅く、昭和40年代までは馬が活躍していたといいます。特に山間部の集落では、車が普及してきてからも、車が入れない山道があったため、木材や木炭を運ぶためのダチヅケは、遅くまで残っていたようです。
この地域から馬・馬車が姿を消してから約40年。確かに馬がいなくても人々は充分に生活できるようになりました。
しかし、なんだか寂しいんです。馬車が走っていた頃は、人々の交流は目に見えるものでした。どんな人が何を積んでどこに向かっているのか誰が見ても分かりました。ゆっくりゆっくり休み休み進み、会話だってできました。
狭い馬車の中では乗り合わせた人同士、世間話に花を咲かせたかもしれません。遠方から長い時間馬車に揺られてわざわざやって来てくれたお客様には誰だって「よぐきたねし」と声をかけたでしょう。
それが、移動手段は自分の車、作物だってトラックに載せてそれぞれが出荷先へ卸しに行ってしまいます。
人々の交流も、物資の交流も、ずっとあっけなく、さっぱりとしてしまいました。
また、自然にあふれるこの地域の良さも、車の中からでは半分も分かりません。川の音も、草花の匂いも、美味しい空気も、気持ちの良い風も、車の中からでは分かりません。
「ここにまた馬車が走ることがずっと夢だったのよ」―2008年9月、いろんな偶然が重なり、偶然に生まれたひとこと。このひとことがきっかけとなり、2010年4月、黒石温泉郷に馬車が復活したのです。